言動 いっしょなら、きっと、うまくいくさ。
人は誰にでも弱さがある。
言動着てるだけで注目!?
●渡良瀬川に消えた村
今日は何を書こうかと、テレビを見ていると、
最近何かと、政治家の不祥事が多い。浮気、秘書への暴行、政務活動費の横領。
政治家とは、と考えた時、私は1人の政治家を思い出します。
栃木県の南端に、日本一大きなハートの形をした湖があります。
谷中湖です。
この東京ドーム770個分もあるという巨大な湖には、3つの別の顔があります。
■1つは、近くの渡良瀬川が氾濫した時の為の、
日本最大の遊水地で、正式名を渡良瀬遊水地といいます。
■もう1つは、心霊スポットとしての渡良瀬遊水地です。
私は仕事柄この件で、ここを知った訳ですが、上流で災害や自殺、犯罪などの被害者が、
最終的に、この渡良瀬遊水地に流れ着いた事から心霊スポットになったという事でした。
■そして、最後の顔には悲しい物語があったのです。それが、今日のお話です。
渡良瀬川と言うと、森高千里さんが歌う渡良瀬橋を思い浮かべる人も多いと思います。
とてもいい歌ですが、
歌詞の中の、
「願い事1つ叶うなら、あの頃に戻りたい。
私、ここを離れて暮らす事出来ない。」
という部分を聞くと、私は今日の話を思い出して、少し切なく聞こえてしまいます。
1841年(大正2年)
栃木県、佐野市にある農家に、一人の男の子が生れました。
農家でも一応名主の家だったが、生活は中流で、裕福な家ではなかった。
彼が5歳の時だった。
彼が、家に雇われていた下僕に理不尽な怒りをぶつけてしまう。
すると、母親が飛んできて、
「正造、お前、何様だよ。」と怒られ、
真っ暗になった暗闇の戸外に、2時間も放置された。
母親は、弱い者いじめを絶対許さないという人だったという。
正造は、この時から、弱い者いじめはしてはいけない。と幼い心に刻んだという。
正造23歳の時、近くに住んで居たカツさんと恋をしたのだが、
大沢カツはまだ15歳の高校生だった。
当然カツの両親が、二人の結婚を許すハズは無く、二人は駆け落ちするのだった。
今でも駆け落ちは、滅多に無い事ですが、当時は有りえない事でした。
ある日、カツが裁縫の習い事から帰る途中、
正造宅に半分強引に連れて来られてしまうというやや強引な駆け落ちでした。
カツの実家は、誘拐ではないかと大騒ぎ。
カツの家族は、付き合っていた正造の家にもやってきましたが、
正造はカツを風呂桶の中に隠して、そのままカツは家に帰らなかった。
正造はその後、役人になるのだが、
そこで地獄が待っていた。
ある日、正造の上司が何者かに殺されたのだ。
そして、その犯人が正造だと疑われ、逮捕されてしまったのである。無実である。
冤罪事件(えんざいじけん)だった。
この裏では、正造の生真面目で融通の利かない性格や言動が、
上役たちの反感を買われていたのが影響していたと言われている。
獄中は、まるで地獄だったという。
正造が殺したという証拠は全く無いのだから、警察は自白を強要した。
拷問に次ぐ拷問。
また冬の刑務所はとても寒く、同じ房の囚人が4人も凍死したほどだったという。
そんな中でも、正造は3年も無実を訴えて頑張ったと言う。
ようやく正造は無罪を認められて、自由の身になったのだが、
その時、正造、34歳になっていた。
正造は自分の無実を、ただ一人信じて待っていてくれたカツと結婚する。
4年後、正造は区会議員として、政治活動を始めました。
無実の罪で捕まって、間違った権力を振るう人達を自分の手で良くしようと志したのです。
そして、1890年、正造50歳の時、
栃木3区から出馬した田中正造は、第1回衆議院議員にみごと当選したのでした。
ところが、議員になった僅か2ヶ月後の事です。
栃木県の渡良瀬川に50年ぶりの大洪水が起きて、川が流域各地で大氾濫したのです。
そして、それはただの氾濫ではありませんでした。
ただ川が氾濫したのであれば
、水が引けば、元に戻りますが、
この渡良瀬川が氾濫した後には、地獄が待っていたのです。
あちこちの池で、魚が腹を上にして死んで浮かんでいるし、
稲は育たなくなり、そのままの状態で立ち枯れるれ大騒ぎとなったのである。
それまでにも、渡良瀬川で、鮎の大量死という事件があったのだが、原因が分からなかった。
実は、渡良瀬川のずっと上流に、足尾銅山があった。
そして、この足尾銅山こそが、これらの現象の巨悪の根源だったのである。
銅を精製する過程で出る銅イオンや亜硫酸鉄、硫酸が川を汚染し、
鉱毒ガスである二酸化硫黄が酸性雨を降らせ、足尾銅山付近の山々は、禿山となっていた。
そんな汚染された渡良瀬川が大洪水によって、池や田畑に流れ込んだのだった。
実は、足尾鉱山の周辺では、この酸性雨によって、
すでに松木村、久蔵村、仁田元村の3つもの村が、廃村となっていたのである。
足尾の山は、禿山になるだけではなく人間も住めない地になっていたのだ。
これはたった一人の政治家が、巨悪に立ち向かった環境保護運動である。
正造は被害状況を知る為に、渡良瀬川流域に住む人達に話を聞き回ります。
すると、ある事が分かったのである。
それまでの足尾の山は生茂った森林に豊富な水が染み込み、
腐葉土には養がをたっぷり含まれ、それが下流に流され、
渡良瀬川流域は「命の川」と言われるほど豊かで、渡良瀬川で漁業を営む人たちも居た。
それが、今では渡良瀬川に棲んでいた魚は死に絶え、
農作物は、ほとんど収穫できなくなってしまったのである。
鉱山の毒を含んだ水が川を流れ、渡良瀬川流域に住む人は軒並み目が悪くなったという。
食べるものもなくなり、母親の乳が出なくなったり、目が見えない子が産まれたり、
胎児や乳幼児の死者が通常の2倍以上にもなったという。
後に、これは足尾鉱毒事件と言われた。
たった1つの会社の横暴が、多くの住民の生活を苦しめているのはおかしい。
正造をその事を国会(帝国議会)で取り上げ、足尾銅山の操業停止を訴えた。
当時の鉱業条例では、
「農商務大臣は、採掘などの事業で害がある場合は、認可を取り消す事が出来る。」
という法律があり、それに照らして足尾銅山の認可を取り消す様に迫ったのである。
しかし、足尾銅山を開発していた古河鉱業は、正造よりも一枚も二枚も上手だった。
古河鉱業の社長、古河市兵衛は、こういう事もあるだろうと、
当時の農商務大臣の息子と自分の娘を結婚させ、婚姻関係を結んでいたのである。
だから、正造の追及に対して、農商務大臣はのらりくらりとかわして、
結局、そういう被害は認められるが、それが足尾銅山が原因とは認められないと退けた。
実は、当時、日本の法律にも不備があったのだ。
当時は、原告に立証責任があったので、農民たちや専門家では無いいち政治家が、
専門家である会社に対して、裁判で勝つ見込みなど皆無に等しかったのである。
そして、正造の敵である巨悪は1つの会社だけでは無く、この国だった事を知るのである。
何もしてくれない政府に怒った農民たち2500人が決起して、
みんなで政府に陳情しようという事になり、栃木・群馬などの農民たちが、東京に向った。
これが後に言う「川俣事件」である。
ところが、群馬県の川俣まで来た時、政府の命令で180人の警官隊が待ち受けていた。
そして、武器を持っていない無抵抗の農民を石やサーベルで殴る蹴るで退散させたのである
それだけではなく、首謀者と思われる51人を捕まえ裁判にかけたのだった。
当時の総理大臣、山縣有朋は「ドン百姓の連中らを東京に入れるな!」と命令していて、
警官や憲兵が利根川を超えさせるなと、川俣で農民たちを待ち伏せし弾圧したのだった。
実は、当時足尾銅山は、国内において約50%の銅生産率で、国内第1位を誇っていた。
政府は、この銅で銃の弾や大砲の弾丸を作ったり、
この銅を売って武器を買い、アジア隣国へ侵攻し、
イギリスやフランスの様に、領土拡大を画策していたのである。
実際、1894年の日清戦争では足尾銅山の銅が、武器製造に役に立っており、
じきに始まりそうなロシアとの戦争(日露戦争1904年)にも備えようとしていたのだ。
だから、当時の政府にとっては一部の農民の苦しみよりも、武器になる銅だったのである。
川俣事件の惨劇を知った正造は怒り、
農民を無視している政府の責任を激しく議会で追及した。
のちのこの時の演説は「亡国演説」と呼ばれ、
日本の憲政史上に残る大演説と言われる。
どんなものか、簡単に言うと、
「今、私達の日本は亡びようとしています。
渡良瀬川沿岸の人々を殺す事は、国家を殺す事になり、
法律をないがしろにする事は、国家をないがしろにする事です。
これは自らこの国を滅ぼす事に他なりません。
税金を無駄遣いし、民を殺し、法を破って、亡びない国など、
いまだかつて聞いた事はありません。」
正造は、こうも言っています。
「戦争は犯罪である。世界の軍備を全廃するよう日本から進言すべきだ!
陸海軍を全廃して軍事費を、人民の福祉に振り向けるべきである。
皇居からわずか80キロ離れた関東の沃野を足尾の鉱毒で荒廃せしめ、
幾十万の人民に塗炭の苦しみをさせながら、満州を占領したとて何になる。
力をもって得たものは、必ず後日、力をもって奪い返されることは必定である。」
正造の亡国演説に対して、当時の総理大臣・山縣有朋は
「質問の意味がわからない」として答弁を拒否した。
それを聞いた正造は、当時与党に所属していたが、失望して、離党したのであった。
後に田中正造を無視した政府が、間違った戦争や侵略の道へと進んだのは、
皆の知る所です。
その後も正造は、足尾銅山の問題を新聞や世論に訴えたり、
国会で度々意見して、足尾銅山の操業をやめさせろ!と明治政府に迫った。
しかし、政府がやった事と言えば、
足尾銅山を批判する意見を潰す、意見弾圧だけだったのである。
政府に失望した正造は、ついに最後の禁じ手を行なう決心をするのだった。
禁じ手、それは自分の命をかける行為だった。
田中正造は、自分が尊敬する天皇に直訴(じきそ)する事にしたのである。
しかし、当時、直訴をした者の最高刑は「死刑」であり、
正造は真に、農民達の為に、命を賭けたのである。
直訴をするにあたり、まず正造は国会議員を辞職した。
そして、死刑になる夫を持ってはいけないと、
今までありがとう。幸せになれよ。という意味で、妻と離縁したのである。
1901年、10月23日。
決死の覚悟で行った天皇への直訴だったが、
沿道で警備していた警官に取り押さえられ、あっけなく失敗に終わってしまう。
これで、全て終わりだ。
もう私には、何1つ残っていない。
そう思っていた正造だったが、そこで奇跡が起きる。
天皇への直訴という行為が、マスコミに取り上げられたのだ。
東京中が大騒ぎになり、号外も出たのである。
直訴状は天皇には届かなかったが、その内容は多くの人の目にとまったのだ。
しかも、本当にそんな酷い事が起きているのかと、
その記事を見た多くの大学生達が、実際に足尾銅山に行ったり、
渡良瀬川流域を調べ始めたりして、やがて多くの人が知る所になったのである。
政府はあまりのマスコミや民衆の反応に驚いた。
本来なら、死刑にしたい正造を、気が狂った1人の男として釈放。
そして、激しいマスコミや民衆の追及に対して、
渡良瀬川周辺に大洪水に供えた貯水池を作るという案を出したのである。
政府の意見は、渡良瀬川周辺の農家の田畑が壊滅したのは、
渡良瀬川が氾濫したからであり、
貯水池さえ作れば洪水は起きなくなり問題解決としたのである。
つまり、政府は隠したかった足尾銅山の鉱毒問題を、
巧みに渡良瀬川の氾濫による治水問題に置き換えたのだった。
しかも、時の政府には、もう1つの狙いがあった。
それは足尾銅山の事を追及しているのは、田中正造を中心とした谷中村の農民だった。
だから、新しく作る貯水池を谷中村にすれば、
谷中村があ
る場所にすれば、足尾銅山の反対らはバラバラになり、
谷中村は、貯水池の中に消滅させる事が出来ると画策したのだった。
生意気な正造も、谷中村も、栃木県の地図から消してやる!
政府は、谷中村の土地を強制買収し始める。
正造は自分の家を売り、谷中村に一緒に住み始め、住民たちと戦った。
しかし、1904年。
栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事が始められたのである。
正造は農民たちの先頭に立って、土地の強制買収を不服とする裁判や、演説を行い、
1913年8月。支援者への挨拶まわりや運動資金の援助をお願いしている最中に倒れる。
正造は自分が胃ガンに侵されていたのにもかかわらず、
みんなの為に駆け回っていたのだった。
正造が倒れた時、なんと所持金は一銭も無かったという。
苦しんでいる農民の為に、
自分の家も売り、議員も辞め、妻と別れ、貯金を使い果たしていたのである。
持っていたのは、信玄袋1つだけで、中には、聖書と日記と本数冊。
そして、みすぼらしい石ころが3つだけだったという。
(後にその石を鑑定すると、それは渡良瀬川が綺麗だった頃によくあった石だったという)
一文無しの正造であったが、孤独死では無かった。
当時、正造から離縁されていたカツは、姉の所に身を寄せていたのだが、
正造倒れるという知らせを聞くと、すぐに駆け付けて、臨終まで献身的な看病をしたのである。
その時に、カツは近親者にこう言ったという。
「私は、今でも彼の妻です。」と。
1913年9月4日。田中正造は、71歳10か月でこの世を去った。
一文無しで死んだ正造だったが、最後は妻の手厚い看護と、
惣宗寺で行なわれた本葬には、
なんと農民など数万人ともいわれる参列者で寺が溢れたという。
その後、正造の意志をくんだ勇士達や農民たちの粘り強いたたかいの末、
古河鉱業に加害責任を認めさせ、古河鉱業は農民たちに15億5000万円を支払った。
渡良瀬川沿岸の人々が鉱毒に苦しめられ始めてから、100年が経っていた。
正造が亡くなって45年後の事である。
山田養蜂場より
渡良瀬川 森高千里
END