東大教授もびっくり 驚愕の言動
言動総合情報サイト
義母は、私にとって最後の砦(とりで)でした。
どれだけ言葉をつくしても、夫婦でわかりあうことが難しい時でも、
義母に言われると無条件で受け入れてきたオット。
私の一番の理解者であった義母は、うつ病を患っていました。
オットの姉からの短い電話を切り、私は途方にくれました。
まず、この状況をオットに伝えるすべがありません。
オットは携帯電話を持たずに、母の最期を見届けるため車を走らせています。
そしてもうひとつ。オットの姉の最後の言葉。
「私達も明日行こうと思います。」と告げた私に、
「こっちは家族でなんとかやります。小さい子どもが来ると大変だから。」と、
姉は、最後のお別れも許してくれないようでした。
「母の体調も考えずに、自分のことばっかり言って母を困らせたのはあなたでしょう。
弟にも非はあるけど、そんなことわかって結婚してるはずでしょう。」
母を亡くしたばかりだと言うのに、姉は冷静で、そして冷酷でした。
オットはこの10年、姉とはほとんど会話はありませんでした。
幼い頃からオットへのライバル意識は相当だったいう姉。
たまに私たちが「帰省」しても、子どもが来ると義母が疲れると言って、家に入ることも許されませんでした。
短大卒業後に、医療事務として病院で働いていた姉は、母の看病という名目で退職して、結局15年ほどずっと家にいます。
いつも間に入ってくれた義母をなくした今、この姉弟の関係はどうなるのだろう。
義母のうつ病は、義父の借金からのストレスと聞いていて、
実際母は何度かその話を私にもしましたが、義父の浮気については、
一度も語りませんでした。
オットは、両親の夜中の喧嘩と、義母が10日間家出をしたことで、
小学生ながらに事情はわかっていました。
そして、もうひとつ長年母の心を重くしていることがありました。
私が二人目の出産で入院をしていた時に、義理の姉が大反対したことで、義母達がお見舞いに来られなくなったことがありました。
その時、義母は電話で私に長年の心配事をこっそり話してくれたのです。義母の心配は姉のことで、姉は病院勤務時代からつきあっている人がいて、結婚も考えていたらしい。いっこうに相手を紹介されないことを両親が不審に思い始めた頃に、姉は退職して、
実は相手は既婚者であったことを両親は知ったという。
しかも相手の男が義母の長年の主治医だったという事で義母はそうとうショックを受け、その後数年にわたり、母はその持病の治療を放棄していている。
「(義理の姉)をうらまないでね。あの子もつらい思いしているから。」と、
義母は姉をかばい、私も義母の気持ちを理解し、以来姉の言動に気分を害されることはなくなりました。
夫の不倫に続いて、娘の不倫…
義姉の不倫は、義父にも、息子であるオットにも話していないそうです。
強く自分の心に封印して、一人ふんばってきたのでしょう。
そして、私の話を全身で受け止めてくれました。
受話器から聞こえる義母の言葉は、まるで私の苦しみや悲しみを吸い取ろうと
しているかのようでした。
今思えば、義母にオットの不倫を話したのははたして正しかったのか。
義母はいつもオットを強く諭し、常に私の味方でした。
でも、姉に対しては一体どのように接してきたのでしょう…。
家族への裏切り行為が繰り返される、『家族』という仕組みを、
義母はどのように感じていたのでしょうか。
私にとって、一番の理解者であった義母でしたが、
義母にとっても、もしかしたら私の存在は一番自分に近いと思っていてくれたのではないかと…、勝手にそんな風に思ったりもします。
浮気発覚後に義母との電話でこんな話をしました。
私「エイスケさんは友達がいないから、今回みたいなことになってもだれにも相談できない。私は適当に友達に話してそれでどこかバランスが保ててるけど、エイスケさんはいつも一人で抱え込むしかないから心配。」
義母「ほんとに友達がいればいいんだけど、仕方ないから私が友達になるわ。
いつも母として怒ってばっかりだし、たまには友達になっていろいろ聞いてやるわ。」
その通り、義母はその後もよくオットに電話をして、
ちょこちょこと(オット曰くウザイ)話をしてくれたそうです。
今思うと、その頃というのは、私たちの関係もよいように落ち着いていた時期です。
結局オットは、初七日や諸々の手続きを終えて5日後に帰ってきました。
その間2回だけ連絡がありましたが、
「簡単にすませるから、来なくて大丈夫」と言われ、
私は、最後のお別れもできないまま、最後の砦をなくしました。