きっかけは、視点の移動で魅力アップ

はじめからピカピカのきっかけなんてない。自分できっかけをピカピカにするだけだ。

ドリアン

現代ドリアンの最前線

投稿日:

手と手とドリアン

クアラルンプールから車で2時間くらいのところにあります。

オランダ広場(オランダ統治時代に作られた)
丘の上から見えるはマラッカ海峡
今でも海賊が出るらしい。
えーっ❗今でも❓
ソマリア位かと思ってた😣
フランシスコザビエル(教科書の人だわ💦)の遺体が暫く置いてあったらしい。
フランシスコザビエルはここで初めて日本人に合い、日本という国を知ったそうな。
その日本人は人殺しして日本を逃げてきた罪人だったそうな。
ほぉー、知らんかった😲
お寺を見たり
大富豪の家を見たり
夜はお土産物を買いに。
このラーメンは5年連続なんかで世界一美味しいラーメンと格付けされたらしい。3件目でやっと見つける🎵
ドリアンチップスとか、ベリーズのチョコレート、ガイドさんおすすめの右上のお菓子など購入👌
警備員もあちこちにいて安全性はバッチリです。

ドリアン エンディングまで、泣くんじゃない

前回あれだけの長さで、しかもそこそこ時間をかけて(3時間くらいかかった)ウシジマくんの考察まとめを書いておきながら、けっきょくいくつか書き忘れがあったことにあとで気づいた。ひとつは、途中でちょっとだけ触れた筋肉の問題で、忘れないように触れておいたのに、無意味だった。だから、こうして筋肉問題の記事が独立しているのは、それが特別だからではなく、かといって追記というほど短く済みそうもないので、いっそ単独で仕上げてしまおうというだけのことである。

 

 

まず最初にふりかえっておきたいのはヤミ金くんである。というか、ヤミ金くんにかんする僕の見立てである。これまでたくさんの登場人物を通してさまざまな世界のありかた、固有の地獄が描かれてきたが、それをある意味では支えてきた暴力の構造について最初に明かしたのが、ヤミ金くんではないのかというのが僕の基本的な姿勢だ。というのは、なぜこの副題が「闇金くん」ではないのかというところに、当時の僕はパラノイア的に引っかかっていたのである。そこで、ひょっとするとこの副題があらわしているところのものは、金それじたいではなく、それとよく似た、なんらかの貨幣のことなのではないかと、そういうふうに考えたわけである。若い丑嶋や鰐戸三兄弟が属している世界では、暴力こそが貨幣として機能しているのではないか。

このとき、貨幣としての暴力で購入することのできるものは、恐怖や屈服や間接的に身の安全など、三蔵のような男が浴している恩恵全般だ。これがお金の一種なのではないかとはっきりわかるのは、三蔵を砕いた丑嶋を、鰐戸一たちが再起をはかって、というより、再起をはかるにあたってまずしなければならない地鎮祭のようなものとして、復讐しようとしていたことだろう。地元では怖いものなしだった鰐戸三兄弟は、丑嶋のフルスイングたった一発ですべてを失い、落ちぶれていったのである。その後も鰐戸たちがおそろしい不良であることにかわりはなかったし、復活した三蔵はより狂気を増していたが、とにかく、あのころの、深い理由もなしに若い不良たちが震え上がっていたような感じはなくなってしまった。それは、三蔵が抱えていた暴力の貨幣が、まるまる丑嶋に移動してしまったからである。三蔵は、これまでのさまざまな残虐エピソードに支えられるかたちで、その姿に暴力を貯金していったはずである。それを受けて(あるいは支払うことで)、周辺の不良たちは恐怖し、なにもされなくても屈服し、攻撃することすらしなくなってしまった。ところが、これが敗北する。現実には、丑嶋が三蔵を倒したからといって、三蔵が弱体化するわけではない。三蔵のおそろしさにちがいはないはずである。UMB三連覇のR‐指定が何度か負けたからといって、彼が実質「無敵」であることにちがいはないのだ。しかし、にもかかわらず、鰐戸三兄弟は落ちぶれた。だとすれば、あの丑嶋の一撃によってなにかが変化し、もっといえばなにかが移動したのだとしか考えられないのである。だから、鰐戸一は誰でもない丑嶋から「取立て」をしようとする。丑嶋が抱えている暴力の貯金は本来三蔵が、そして鰐戸三兄弟が抱えているべきものだった。通常、貨幣というものには個々の区別はない。その意味では、依然として鰐戸三兄弟はおそろしい不良のままだったのだし、丑嶋に負けて以後蓄積された暴力もある。しかし、鰐戸にはずっと、なにか「こうではなかったはずだ」という感覚がついてまわっていた。それは、彼の思い込みである可能性もある。つまり、三蔵が丑嶋に砕かれていなくても、彼らはけっきょく、獅子谷のようなパワフルな稼ぎ方はできず、貧困ビジネスでちまちまやっていたのかもしれない。だがとにかく、彼のなかにはその感覚がある。そして、その原因はまちがいなく丑嶋にある。こういうふうに考えたから、彼は丑嶋に奪われたものを取り返そうとするのである。

 

 

さて、こういうふうに考えたとき、この暴力の経済において「筋肉」や「じっさいの強さ」はどういうふうに働くのだろう。

これが暴力ではなく、通常の意味でのお金によって動く経済だと、そのはじまりは「沈黙交易」であるという。どこかで長い文章を読んだ記憶があるのだが思い出せないので、とりあえず内田樹『下流志向』に短い記述が見つかったからそれを参考にする。定義として、経済活動とは、じぶんのもつ財貨を他者に贈与する行為である。しかし贈与といっても、愛情からおじいちゃんが孫に高いオモチャを買い与えるようなものではなく、「反対給付義務」として行われる。誰かになにかをあげたいという気持ちが先にくるのではなく、わたしたちはまずなにかを受け取ってしまい、贈与をされてしまい、その結果、負債感から、債務者として「返さなければならない」という義務感を覚え、返済する。贈与というのをひとことで誰かになにかを与えることだとしたとき、このサイクルが経済の循環を開始した最初の姿ということになるが、そのとき、オリジネイターたちの動機は、ふと博愛の精神に目覚めて、もたざるものに贈与しなければならない、という義務感に駆られて、というものなのではなく、すでに受け取っているものとして、そのことを自覚した先に、はじめて贈与も発生するのである。

そして交換の起源である「沈黙交易」である。ちょっと長いけど、非常にわかりやすいのでそのまま引用する。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ある部族が共同体の境界線のところに何か品物を置いておく。すると、別の部族が来て、その品物を取って、代わりに別の品物を置いて帰る。この繰り返しが交易の起源とされています。

沈黙交易で大事なポイントは、そこに置かれた品物の価値を受け取った方は知らないということです。部族が違う以上、言語も違うし、宗教も違うし、価値観も違う。だから、ある品物を受け取って、それと『等価のもの』を置いて帰るということはできない。もらったものの価値がわからないのですから、等価物を取り出せるはずがありません。それで何かを代わりに置く。受け取ったものの価値は考量不能であるけれど、とにかく『何かを受け取ったら、必ず反対給付をする』という起源のルールがあるからです。誰が決めたか知りませんけど、人類最古の交換ルールは『なんだかわからないものをもらったら、返す義務が発生する』というものなのです。

ですから、沈黙交易では等価物の交換ということはありえません」講談社『下流志向』 166頁から167頁

 

 

 

 

 

 

 
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あるひとが落としたか、いらないから捨てたか、ともかく、ジャングルのどこにも属さないようなある場所に、道具を落とす。と、それを別の部族のものが拾う。彼はそれを見たことがない。なんだかわからない。このとき反対給付義務が発生する。彼は「債務者」になる。それがなんだかわからないから、じぶんの共同体におけるほかのどの道具と同じくらいの価値があるのかはわからない。でも、返さないといけない。だから、同じ場所にじぶんたちの道具を置いておく。こうして交換の波は広がっていったというおはなしだ。この波には原点がある。しかし、厳密には、主体的な贈与者というものはいない。最初に道具を落としたか捨てたかしたものも、そうするつもりがあったわけではない。むしろこれは開始したのは、それを拾ったものなのだ。『下流志向』のこの文章の周辺には言及はないが、ここにはレヴィ=ストロースのブリコラージュをあてはめてもいいかもしれない。ブリコラージュするひとのことをブリコルールというが、『野生の思考』には「くろうととはちがって、ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人」とある。有限の材料から思考を表現することを「神話的思考」として、いわばこれは知的なブリコラージュであり、人類最古の思考法だというのがレヴィ=ストロースの発想だ。わたしたちの身近な例でいえば、僕の考えではたとえば「ジョジョ」は、いつもブリコラージュ漫画である。登場人物たちはスタンド能力という超能力をつかって敵とたたかうが、時をとめたり、傷を治したり、彼らにはそれぞれ固有の能力がある。しかし、スタンド能力が発現したときに、なにかこう、タグのようなものがついていて、「このスタンドは自分以外の人間の傷や壊れたものなどを修復することができます」などと書いているわけではなく、彼らはそれをじぶんで発見しなければならない。だから、いまはなしているのはクレイジー・ダイヤモンドというスタンドの能力だが、彼らは幾度かたたかいや使用の経験を重ねて、どうやらそういうことらしいということを発見していくだけなのだ。だから、厳密にはそうではない可能性もある。ひょっとしたら、作者荒木飛呂彦の思考をコントロールするスタンドなのかもしれないし、瞬間的に世界を再構築して、傷をもたらしたなにかをなかったことにする能力なのかもしれない。ともかく、彼らは、手持ちの道具(スタンド)で「なにができるか」を追求することで道を開いていく。これはブリコラージュそのものなのだ。ある部族では、建築の都合上直角を多用するため、3対4対5の大きな三角定規が重宝されていたとする。これがジャングルに落とされる。ある日これを拾った別の部族の男には、直角などという概念じたいがない。それはただのなにか尖った透明なかたい板である。彼はそれを武器につかうかもしれないし、野菜を切るのに使うかもしれない。そうして、ブリコルールとしてこれを解釈したとき、反対になにをお返しすべきかという問題がはじめて発生するのだ。

 

 

ありえないほどはなしがそれたが、では暴力の経済の起源とはなんであろうか。この構造においては、じっさいには暴力の大きさそのものは、たいした意味をもた
い。三蔵がどれだけ残虐に20人の男を血祭りにあげたとしても、彼に20人ぶんの戦闘能力が備わっているわけではない。にもかかわらず、暴力の経済においては、それだけの価値が三蔵には堆積することになる。それは、お金がそうであるように、その価値が価値を認めるものたちの合意形成によって成り立っている幻想だからである。その幻想は、狭い共同体のなかほど強固に成り立ちやすい。なにもわからない外国人がふらっと三蔵のいる町にやってきても、その「貯金」を見て取って、恐怖することはできない(見た目に恐怖することはありえるが)。三蔵が、なにを、どのようにやらかしたか、これがスムーズに伝わっていく「狭い共同体」という環境が背景としてあることが、幻想としての暴力が成立する要件となる。あの狭い世界においては、もはや三蔵は身に宿した暴力を証明していく必要は、じっさいにはない。誰もが彼をおそろしい男だと知っていて、わざわざ確認もしない、そういう次元になっているからだ。ヤクザくんや逃亡者くんで考えたように、こうした暴力の経済は、特にヤクザ社会においてライフラインになっている可能性が高い。彼らがじっさいに抱えている暴力を、いちいちヤクザどうし出会うたびに証明していったのでは、彼らはそのうち全滅してしまう。そうならないように、彼らはヤクザ的エクリチュールを身につけ、その洗練の具合に暴力を宿し、こわそうな見た目を確立していく。これが「狭い共同体」という、暴力の物語が成立しにくい条件における暴力の経済のありかただろう。このひとには逆らってはいけない、ということは、背景の物語をなにも知らなくても、人間というのは感じ取るものだ。ある意味ではそれを技術として身につけることで、暴力の経済のもとで彼らは「金持ち」になる。しかし、三蔵やなんかよりは広い世界で生きるヤクザたちは、そうもいっていられあい状況が多数訪れる。そうして、じっさいに暴力は行使され、物語の続きが書かれ、また伝達の「技術」も卓越していくことになる。ヤクザではないという意味でカタギである丑嶋に殴られ、それでいて、おそらく刑務所にいっていたこともあって反撃をしなかった(できなかった)ハブは、その意味で貯金をぜんぶ使い果たしてしまった。だから、徹底的なしかたで、実在の暴力を行使しなければならなかった。そうでなければ、ハブは、彼の考えるヤクザとしての生き方をまっとうできないのだ。

 

 

このように考えていったとき、暴力の経済の、交易の最初の衝撃を起こしたものは、誰かの強大な暴力に屈服したものである。誰か強大なものと遭遇したとき、向こうは特になにもしてこないしなにもいってこない、そういう状況で、恐怖を感じ、屈服したほうがいいと、このように選択したときから、暴力の経済ははじまっていった。ただし、これは、お金のように、ひとつの投げ入れた石の起こす波紋のように広がっていった環であるとは、想定しにくい。というのは、暴力の経済においては、屈服したときに彼の暴力は相手に移動することになるわけだが、このときに反対給付義務が生じるとは考えられないからである。だから、そうではなく、この経済の構造は、世界のなかにシステムとして現出するのではなく、おそらく個々の関係性のなかにだけ存するものなのである。それが「狭い共同体」や、ヤクザのようななかば存在を認められた団体において読み替えられない限り、わたしたちはそれを無視することができる。アメリカの経済が日本に与える影響は甚大かもしれないが、テキサスの喧嘩自慢の敗北が東京の不良に与える影響はほぼゼロとみていいのである。

 

 

さて、重要なのはこの起源だ。それが個々の関係性のなかの問題だとして、この暴力の経済は、まず最初に屈服なり恐怖なりしたものがあって、はじまったものである。この場面だ。彼はなぜ相手に屈服したのか。彼にはなんの前提知識も考えられない。三蔵が抱えているような数々の残虐物語もないし、「ヤクザはこわい」という知識やヤクザであることを示す記号も理解できない。こうしたとき、なにが彼を屈服させるのか。ふたつ考えられる。ひとつは、たんじゅんな動物的直観である。相手が大きい、じぶんより明らかに強い、そういうときに、無謀に挑んでいく動物というのは、いないわけではないが、とりあえず合理的ではない。そしてそれとかんけいするところで、ふたつめは、彼がじっさいに敗北をしてしまったということだ。暴力の経済において、暴力は幻想として働くが、その起源においてだけは、必ず実在の暴力が必要になるのである。

 

 

ずいぶん長くなってしまったが、書きたかったのはこういうことではなく、「ウシジマくん」における筋肉のあつかいについてだった。まず獅子谷兄弟にかんしては物量主義ということがある。本編の感想で何度か書いてきたが、彼らはヤクザ越えを目指す半グレである。重厚な歴史と情念の機能する組織であるヤクザを超えるために、獅子谷兄は量に走る。これが、彼の筋肉信仰、また弟の格闘技という要素にもつながっていると考えられる。ことに及ぶとじっさいに暴力を行使するヤクザに対しては、幻想の暴力は通用しない。じっさいに強くなくてはいけない。それが、彼らのからだに過剰な筋肉を搭載させ、人数と金を増していくことに腐心させるのである。と同時に、これは、以上の文脈を踏まえると、起源に返っていくということでもある。じっさいに強くなること(甲児)、あるいは見るからに強い肉体を備えること()は、暴力の経済のはじまり、“最初の屈服”の地点で、非常に有効なものである。ヤクザの抱える長い歴史や巨
な組織、コノテーションは、すでに流通している貨幣を有効利用するものとして非常に強力だ。ふつうのひとたちは、仮に弱そうでも、積極的にヤクザと関わろうとはしないし、できればかかわりたくない。なぜかというと、わたしたちがヤクザとか世の暴力とかいうものについてよく知っているからである。これを超えようとする獅子谷は、必然的にこの「ヤクザ的なもの」に対峙しなくてはならない。それが、彼をつねに暴力の経済の原点に戻させる。長い時間をかけて、個々の関係性を数え切れないほどつなげていくことで、現行のヤクザの恐怖物語は成り立っている。この文脈ではとても歯が立たない。それを彼は物量で圧倒したいわけだが、それと同時に、個々の関係性においてもつねに勝っていたいと、おそらくどこかで意識しているのである。もし彼が常に個々の関係性において勝者であるなら、彼は将来的な可能性としてヤクザと同等かそれ以上のものを含むことになるからである。『バキ』で、数百人の空手家に囲まれたドリアンが、ひとりの空手家を空手で圧倒したあと、一対一で勝負する空手のルールで、じぶんは君たちを圧倒している、したがって君たちは何人集まろうとじぶんに勝つことは不可能である、という、一種の詭弁で集団を黙らせたが、心理的には似たようなものだろう。背景なしにヤクザを超えようとする獅子谷には、それが理論的には可能であるという自信が必要なのである。

 

 

本編では丑嶋と滑皮の筋トレ描写もある。丑嶋は例のラットプルダウンである。いつものように、滑皮への怒りをトレーニングにぶつけている。いつか考えたことだが、しかし、怒りを発散するにあたって、背中のトレーニング、つまり引きの動作を行うというのは、なかなかおもしろいのである。なんの技術もなくても、グローブをはめてサンドバッグを叩くのはいいストレス解消になるだろう。それは、それが押す動作だからだ。もちろん引きの動作にそういう効果がないというわけではないのだが、この描写も二度目であり、やはりここには象徴的な意味が感じられる。それは、けっきょくのところ丑嶋は滑皮という存在を受け容れているということなのだ。受け容れざるを得ないといったほうがいいだろうか。丑嶋は、ラットプルダウンを通して、滑皮へのストレスを解消するとともに、その存在を引き寄せている。さらにいえば、引き寄せの動作を反復することで、タナトスに駆られたひとが無意識に嫌な記憶をくりかえし夢に見ることで克服しようと努めるように、噛み砕いて消化してしまおうとするのである。そうした結果丑嶋のあの屈強な肉体が作られているのだとすれば、なかなか皮肉なものだ。丑嶋としては職務上必要だから鍛えているわけだが、その筋肉を構成する成分は滑皮なのである。

 

 

その滑皮は、丑嶋のような負荷の高いトレーニングとはまた異なって、自重のトレーニングや水泳などを行っている。極真会館の創始者である大山倍達は、じしんも現役時代にはベンチプレスなどを行っていたが、晩年は自重トレを弟子たちに推奨していた。それを、大山総裁は自力本願と、また、じぶんの体重以外のなにかを用いて鍛えることを他力本願と呼んでいた。筋肥大や筋力強化、つまり、からだを大きくしたいということやもっとパワーをつけたいという動機であるなら、自重にこだわる意味はないかもしれない。では自重である利点はどこにあるのかというと、安全面などを除けば、身体のコントロールに卓越することになるという点だろうか。

ただ、滑皮にかんしては、獅子谷とも丑嶋とも異なって、ヤクザという物語に属しているというアドバンテージがある。その意味では現行のシステムのもと、極論ぜんぜん強くなくても強者であることは可能なわけである。いったい滑皮はなんのために腕立て伏せや腹筋を行うのか。ここには責任感を見て取りたい。自身という存在がこれまでもたらしてきた他者への負担、またじぶんが果たすべき義務、こういうものを、じぶんという存在の表現である体重に読み替え、これを負荷として、反復動作を行うのである。滑皮は組織の人間である。先輩である熊倉のために動き、後輩である梶尾たちのためにかっこいい先輩でいなければならない、そういう関係性のなかに生きている。たんに、サバイブして、ほしいものを手に入れてという、エゴだけで生きているのではない。滑皮は滑皮というポジションを先輩や後輩から任されているのであり、その任務に耐えなければならない。トレーニングというのは、負荷をかけて、次に同じ負荷がやってきても耐えられるように身体が成長する、そのきっかけをつくる作業だ。滑皮は滑皮という任務をまっとうするために、みずからの体重を、つまり存在を負荷にして、動作を反復するのである。

 

 

 

 

 

 

 
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-ドリアン

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